俺の子を孕むチノちゃんの「無知の恥」の部分

この瞬間を心待ちにしていました…

 

光って、まっすぐ向き合ってる時が一番輝いてて、眩しいですよね。

 

っていうフレーズを思いつきました。好きに使ってください。

なんか他人を自分の創作に入れようとすると全部嘘っぱちっぽくなっちゃうんですよね。文体がとかじゃなくて感覚とかが、もうやる気なくなっちゃう。

 

結局わたくしは自分と向き合ってるときが一番幸せな時間でありますから、常に自分から発せられる光に目をすぼめていたいとおもひです。

 

はい。最近宮沢賢治にハマってます。米津の影響です。

彼氏の影響で煙草やギャンブルにハマる女性になった気分ですが、面白いんですよ。

面白い表現がいっぱい見れて楽しいんです。

自分のジャケットやらステッキやらがどんどん自分の手元からなくなっていく時に、質量保存の法則を引き合いに出しながら言った「別にどうにもなっていないといったところで俺というこの明らかな牧師の意識からぐんぐん物が消えていくとはなさけない」が面白くて笑っちゃいました。

 

あと関係あるかわかんないですけど、『小岩井農場』という詩の中に出てきたハツクニーという馬の別名がノーフォークトロッターというらしいです。米津のLOSTCORNERという曲にノーフォークという単語が出てくるのですが、マジで意味が分からなかったので、今のところはこれのおかげで「ああいつもの宮沢賢治匂わせだ」と解釈を落ち着かせることができそうです。まあまだちゃんと歌詞全部読んでないので、また今後解釈が変わる可能性がありますが、、、というか絶対変わると思います。

 

今日はその話をしましょうか。たとえば今の俺みたいに、今の俺の歌詞の解釈があって、それが今後よりよいとおもった解釈に出会ったとき、それを素直に受け入れるのって大事だと思います。自分の正しいと思ったことに素直になるべきです。

んで大事なのは、過去の当人の言動に引っ張られないこと。マギのシンドバットも言ってましたね。「それは過去の未熟な俺がはじき出した未熟な答えだ」って。

 

どれだけ私が「ノーフォーク宮沢賢治の匂わせだ!絶対そうだ!!」と言っても、未来の私が「ノーフォークはイギリスの土地の名前です。宮沢賢治は関係ありません」と言ったら私はそっちに鞍替えしたと皆さん認めてください。そっちのが正しかったと認めたことをあなたたちは認めてください。そこを引き合いにして戦おうとしないでください。私は過去の未熟で浅はかな私とは違うんです。今の私こそ最高に正しいのですから。

 

そして私は、常に今の私が絶対正しいと自信を持って言えるように、常に正しいと思った気持ちに正直でいます。私が正しいと思っていることは「この世で一番大事なのは想像力、イメージである」ことと「私の正しさはいつしか間違いになるかもしれないが、正しいと思った気持ちを受け入れられれば私は過去の私も信じられる」ということです。イメージの話はまた今度しましょう。今日は2つ目の話をします。

 

今私が自分を好きでいられるのは、自分が正しいと心の底から思えているからです。過ちを認め、何をしたいのかじっくり考え、どうするべきなのか真剣に悩み、自分の納得できる答えが出せたならそれを信じるということをするようになって、自分が好きになりました。そして重要なのが、出した答えが後に間違いだとわかっても、それを自分が正しいと思った根拠があるので、未熟でも受け入れられるということです。

 

「あなたがこれを正しいと思った理由はわかります。でもこっちの方がもっと正しいと思いませんか?大丈夫です。今までの自分を否定せず、正しいと思う方に進んでいく自分を信じてください。」

 

こう自分を焚きつけることで、私は人には受け入れられないであろうやり方で自分を大事にしてこれました。というか、その感覚を植え込まれた4,5歳くらいの時から違和感があったのですけど、例えば「プロ野球選手になる!」といった子供が職場体験で消防士にあこがれを抱き「俺やっぱ消防士になる!!」と夢を変えることってなんでか良い顔されませんよね。「一度言ったことは最後までやり遂げなさい」「言葉に責任を持ちなさい」って言われますよね。

 

言葉に責任を持ちなさい、はわかりますよ。プロ野球選手になりたいといった子供と、その夢をかなえるために協力してくれた周囲の人の思いを知った上で、それでも強い気持ちで夢を変えることを伝えるのは重要なことです。犠牲を理解して全部背負ったうえで、自分のやりたいことに全力で取り組むべきです。

 

問題は4,5歳の頃にポロっといった夢をずっと意識し続け「一度言ったことは最後まで責任持ってやりなさい」と変化されると対応がダルいからと自分の都合を子供に押し付ける親です。これ別に4,5歳じゃなくても、例えば小5,6くらいに「中学受験していい高校行って良い大学行って安定した社会人になりたい」とか言ってその後の人生の一見明確なルートを示して親を喜ばせた子供とか最悪ですよ。そう簡単に環境は変わりません。すべてを擲つ一世一代の勇気を振り絞ってすべてを変える覚悟で、親にぶっ殺される覚悟をもって戦いに臨まなければいけません。

 

本当はこんな勇気必要ないんですよ。その勇気を糧に動ける奴なんてほんの一握りです。自ら環境を変えるのは自分も周りもあまりすすんでやりたいことではないんです。んで変えれずなあなあになって大人になってく奴がほとんどです。そういうやつらが集まって形成される社会が圧倒的に多いので、ふてくされ無気力邦ロックを聞き、お互いに傷をなめあい、結果的に人並みの幸せを得られるんだから彼らは幸せもんですよ。本気で言ってるわけないだろゴミカスうんちどもめ。

 

まあ何が言いたいかっていうと、そんな無知無知なガキンチョが正しい選択なんかできるわけないんだから、正しいと思える感覚に簡単に正直になれる環境であるべきなんです。そうじゃないと、自分にはその環境がなかったと気づいた後がしんどいです。

 

正しいと思ったことに常に正直でいて、その裏には何があるのか、自分は何を今まで見落としていたのか、何を大事にしたいのか、それを正しく判断するためには、何より知ることと、知ってることを知らない振りしないことが大事です。自分が夢をあきらめた時、何が失われるのか。その失ったものを全部しょいこんで、そのうえで自分が正しいと思うことを貫き通すことは、そうしろと教わらないとなかなか難しいことです。

 

みんな嫌なものはなるべく背負いたくないからね。僕だってそうです。つらい思いをしたとき、つらいなあつらいなあと思いながら今まで正しいと思っていたものでくるんで抱え込むんです。それが未熟な正しさの最後の仕事です。あとはもっといい正しさに任せます。彼は私よりもっと優れているので、私のことも受け入れてくれます。

 

こういうサイクルができてる今の私は、最高に正しいと思うのですが、もっと正しいと思うものがあれば、ぜひ教えてください。私の正しさをぶち壊す丁寧な正しさをいつも楽しみにしています。

 

 

子供みたいなまま遊び疲れてそれじゃあまた明日

金次郎は偶像を背負って歩く

こんにちは。

 

この最初のブログを読みに来てくれたあなたは、おそらく何かで私を見つけて、私が何者なのか興味を持って探りにきた人なのではないかと思います。

 

私の100%の本心と、この一番最初を読んでくれるあなたに伝えたいことを懸命につづりますので、拙い文章ですが読んでくれると幸いです。

 

 

私がこうしてブログを書き始めたのは、自分に正直でいる時間を無理にでも作らなければいけないという焦りからです。

 

まず私は、自分以外の人間に自分の心中を打ち明け、それを多くの人にさらすことに、まったく興味がありません。米津玄師もBUMPOFCHICKENも、とても好きなのですが、その一点だけどうしても心が重なりません。

 

でも別に良いんです。自分の信じたい人が信じるものを信じれなくても、私は信じたい人を信じれる人間であるから。BUMPや米津と心が通わない部分があっても、通った部分は確かにあって、私はそこを大事にできる人間だから。別に他人と共有したいっていう気持ちがなくても、自分の思いを表現しなくても十分幸せになれるんです。

 

でも最近バイト始めたんです。いや、今のこの凋落した現状の原因となった甘い傷は、もう少し前にできたもの。今住んでいる場所を離れられればいいと、親に耳障りの良い理由にするために行きたくもない海外に半年留学することになって、3か月で鬱になって帰ってきた時から、なんだか心に違和感を覚えるようになりました。

 

妙に頭がスッキリするのです。部屋の窓を開けれず、まともに呼吸できないほどいやだった所にぬけぬけと帰ってきてしまったというのに、すごく嫌な気持ちは確かにあるのに、それに体が支配されることを心が拒むのです。

 

すごく嫌な予感が頭をよぎりました。私は、劣化してきているのではないかと。鬱になって弱ったせいで、あの出来損ないと荒廃した鉄筋コンクリートの山に心の平穏を見出してしまっているのではないかと。

 

すぐにこの場所を再び離れなければ。でないと私はすべてを捨て去り2年かけて再構築した私のなりたい私にいよいよたどり着けなくなってあああでももう金がない。

海外に行くのに300万円も借金してる。こんな状況でぬけぬけと首都圏のボロアパートで独り暮らしなんかできない。親に申し訳ない。健常者として育ててくれてありがとう、障碍者でごめんなさいって謝ったばっかりなのに。

 

とにかくバイトをするしかない。心を捨て、不愛想で人相が悪い店員として半年くらい働いて貯金して、それで独り立ちしよう。

 

という具合にバイトをいっぱい応募したのですが、私のやる気のなさがめちゃくちゃ伝わってたのか(あるいは髪を染めていたからか)、全然受かりませんでした。私の人生でここまで自分を過小評価された期間は初めてなので、そりゃあもう下限を突破してここらの人間が嫌いになりました。マジでお前らが今まで踏みしめた大地ごと沈めと思いました。

 

んでまあ1個バイト受かったんですけど、そうするとまあやっぱ懸念してはいたんですが、自分の時間が全く取れないんですよね。フルタイムで働いてるんで、もうそれがしんどくてしんどくて。ああ世の労働者が長いこと生きてる割に未熟者が多い理由はこれかと。自分自身と向き合う時間も機会も与えられないんだと。

 

私はそれまでに自分と向き合う感覚をすでに会得していたため、やろうと思えばいつでも自分自身と対話できる状況です。けどこの不快な環境で、本心から自分を構成するすべてを好きになれるとは思えない、肺にたまってる空気ですら好きになりたい私にとって、この環境だけが唯一私の前身の足を引っ張るのです。そうした理由から私は常に簡単に自分の好きな自分になることは大変難しい問題なのです。環境のせいで。私の嫌いな人間どもに自分の一番魅力的な姿を見せてやる義理も愛もないですしね。

 

さて、そうしたおかげで私は、ゆっくりと朽ち果てて立て直せなくなってゆく私の積み重ねてきた信念を、そわそわしながら眺めては、なんとかすべて腐りきる前にと労働にいそしむ人間であるのですが。

自分の時間がクソみたいな環境でクソみたいな労働に多くの時間を取られることで奪われること、そして労働時間も私の脳と細胞に嫌な傷として刻まれ続けるわけですから、そうしたクソが私の空いた心を犯していく様は、さすがに耐えられませんでした。

 

私が文章を書く理由は、毎日文章に書くことで、文章に書くことで自分自身と向き合える人間になるためです。その時間が必要だったんです。

 

さて、それをわざわざ人に見られるようにする理由です。

 

先にも述べたように、私は自分の気持ちを他人と共有するのは別にしたいと思わないし、何ならちょっと嫌まであります。じゃあなんで、なんですが、これは「今の自分が他人に好かれる魅力を持っているであろうという確信は、自分の若さに由来していると思った」からです。なんで若いうちに若い自分の姿を、魅力的な人間である様を、発信していた過去が欲しかったからです。

 

さっきツイッターで、45歳の一人暮らしのおっさんがどんぶりの上にマヨネーズかなんかと総菜を混ぜて食う幸せをかみしめながら、「45年必死で生きてきてこんなことやってるの、俺の人生何だったんだ…」と唇をかむ漫画が流れてきました。

風呂に入りながら、俺が40くらいになったとき、今と同じような感覚でいることを考え、俺は多分40くらいで魅力的に見えなくなった俺を多分心から好きになれない、俺が今俺を好きなのは、若いのに考えがある程度しっかりしてて、将来性もあってそれが俺の魅力だと思ってるからだと気づいたんです。

 

(今、一人称を「私」にしたかったことを思い出しました。)

 

そう思ったとき、自分の魅力を残すために、私が魅力的な人間に無事なれたとき、わたしはこんなに前から魅力的だったと示すため、そして魅力的になれなかったとき、私は昔はこんなに魅力的だったんだと証拠を示すために、今からみんなに見える位置に私の魅力を置いて残しておく必要があると考えました。

 

文字におこすまでだいぶ後ろめたくて気持ち悪いものがあったのですが、書いてみるとどれも案外スッキリするもんですね。ハマりそうです。

 

気づいたらもう午前1時です。パソコン画面の見過ぎで、私の長所だった天性の視力が落ちかかっているので、もう寝ないといけません。明日も傷口にくっさいクソを塗りたくられてきます。心を許したりはしません。私の心にクソを投げつけた野郎どもは絶対に許しません。

 

何か最後まで読んでくれた人にメッセージでも残そうかと最初に考えていたのですが、うんこで終わっちゃったのでどうしようもできません。私はうんこはそんなに好きじゃないので。

 

まあ明日以降の話でも、私は自分が信じられない言葉は書かないので、これ以降の文章で「いいな」と思った言葉や話があれば、それは素直に信じてくれてもいい、少なくとも私はあなたの信頼に足る人物であると、そう信じていますので、信じたかったらいつでも気軽に信じてください。嫌いになったらいつでも嫌いになってください。

 

子供みたいなまま遊び疲れて

それじゃあまた明日。