昨日の夜、ankerのサウンドリバティ4が発送されたっていうメールが届いて、3~5日後に届きますよ~って書いてたんですよ。んで楽しみだなぁって思ってたら、なんか今日届いてたらしくて不在通知が来てました。なにしてんの。
ラストマイルを観てから通販で買った後の配達員のきもちになんとなく思いをはせるようになって、いや別に夜の再配達可哀想とか遠慮しようとかそういうんじゃなくて、ほんとにどういう気持ちなのかなって考えるだけなんですけど、案外辛いとか思ってないんだろうなって思います。
相手の気持ちをしっかり考えるっていうのは、相手がいつもつらい思いをしていると、こじつけることではないし、自分の行動がすべて相手につらい思いをさせているというものすごい自責の念を抱くことでもないですよ。相手側は過剰に気を遣われることに嫌な思いをしないだろうという傲りからくるこれらの行動ですが、この行為を「相手の気持ちを考える」と言わないでほしい思いがあります。気を遣う、という点では相手の気持ちを考えられていると言えますが、相手の心情を理解してそれに応じた行動をしているわけではなく、ただ何となく自分を下げて相手を気持ちよくしてるだけということをわきまえるべきです。
配達員に対して「夜遅くにあなたの時間を犠牲にして私の都合に合わせてしまってすいません」と思うことも、別に配達員が夜間に配達をすることで得られる報酬以上の何かを犠牲にして精神を削りながら配達してると言える何か確信めいたものがあっての思考ではありません。ただ、そう決めつけることで精神衛生上いいというだけのことです。別にいいんですよ。それが自分の幸せにつながることだとわかっててやってるんですから。自分の気持ちを無視して犠牲にして相手を敬う方が楽ですもんね。
ただ、それでも自分が今何をやっているのかということはわかっているべきです。あなたがやっていることは「思いやり」ではなく「無料の全肯定ヘルス」であると。あなたの考えた相手の気持ちは一ミリも掠ってないし、あろうことか相手にそういった気持ちであることを強要し、手に余る自分からの感謝を、受け取りを拒否する相手に押し付けている、という構図を理解してやるべきです。それがその人にとっていいか悪いかは関係ありません。
その全体図を理解して、そのうえであなたたちは自分を犠牲にして相手を気持ちよくするべきです。でないと、生まれてきた子供たちが「相手の気持ちを考える」という言葉の意味と実際の使われ方の齟齬にひどく困惑してしまいます。あなたたちが相手の気持ちを考えず行動することを「相手の気持ちを考える」と厚かましくも言いふらすことで、子供たちはひどく迷惑しています。
子供たちは別にあなたのように自分を犠牲にすることでしか相手を幸せにできない子ではありませんから、あなたの弱さを子供にさぞいいことであるかのように唆さないでください。それが正しい人とのかかわり方であると誇らしげに見せつけないでください。だたあなたが弱者であることを認めてください。ただあなたが出来損ないであることを認めてください。あなたのその姿は、子供に見せるべき背中ではないことを理解したうえで、カスみたいな生き方してください。
子供みたいなまま遊び疲れてそれじゃあまた明日